Rüschoff & Ritter (2001).
考え方は面白いけど,実際の実践や,その分析方法がなかったのが残念。
どうもこの手の論文は,そういう傾向がある気がする。
もっと,アウトプットとその検証法を確立しないといけないでしょ。
Kern (2006)
説明の足りない論文の個所を修正中。
いろいろ読んできたけど、ていくか、去年の夏は、論文千本以上目とおしたけど、
振り返ると論文全体を支えてくれる気になるものは数本に絞られる。
その中でも、
Kern, R. (2006). Perspective on technology in learning and teaching language.
TESOL Quarterly, 40, 183-210.
は面白い。
最後のテクノロジー利用のイメージがずれるけど。
その中で、
“it is not the technology per se that is effective or ineffective but the particular ways in which the technology is used” (p. 188-189).
“In sum, the complexity of the issues involved in technology and language learning is pushing us to look beyond gross decontextualized measures of effectiveness to understand effectiveness in terms of the specifics of what people do with computers, how they do it, and what it means to them” (p. 189).
“Whereas early CALL research generally sought out relatively simple cause-effect relationships between human-computer interaction and learning, current research seeks to understand complex relationships among learners, teachers, content, and technology within particular social and cultural contexts” (p. 201).
といっている。
この3か所の指摘は、CALL研究の中で見逃せないことをいっていると個人的には思うのだけど、
なんかCALL研究の趨勢からはスルーされているような気がする。
でも、CALL研究ではかなり有名な人なのに、肝心のパースペクティブの部分が
スル―されるのには、それなりの意味があるんだろうと思う。
(結構、実践の部分では引用されている。Networkbasedの方)
それは、彼が実践にプラスされる分析の手法をペアにしてアウトプットを提示していないからではないか。
読み手の方は、実践の形にばかり目を奪われがちで、おいおい、実際に、それってどうやって分析するんだというところが分からないまま手を付けてしまう。(分析視点の猶予問題)
CALL研究って、結局テクノロジーの変化に引っ張られて、「こういうことが大切だよね」というコンセンサス=「パースペクティブ」がないまま、それを見る・図る・分析する方法=「学問の制度」を歴史的に積み上げてこなかったが故に、なんとかテクノロジーがあるからキラキラしてるけど、実は、学問体系としてはとても脆弱な基盤しか持たないことが、やっと、最近、はっきり、わかりた。
(これが、はっきり分かっただけでもいいか)
研究の存在理由が、常に外(外部環境=テクノロジーの変化)に存在して、
内的な基盤がないように思う。鉄筋の足りないマンション。
21世紀とは思えない教室環境。
そんな不幸な歴史のなかでも、師匠の師匠の、
とか、師匠の
の論文は、CALL研究(in Japan)の基盤づくりに貢献していると思う。
さらに、最近のCALL研究のもっと悪いことは、教室の外のテクノロジーの広がりが急速で、
唯一のよりどころであったテクノロジー利用の部分で、
「外国語教育におけるテクノロジー利用」という固定的な場面設定がとてもし難く、
力技で、仮になんとかそれを設定して切り出しても、何かとても不自然に感じてしまうことだと思う。
「~を使った効果的~」って、とても不自然に思いませんか。
さぁ~、そこで。。。。と解決策が見えないまま、ここから降りてしまえば楽なのだけど、
しぶとくしがみついて、「外国語教育におけるテクノロジー利用」において、
「こういうのが大事なんだなぁ」という実感を育てつつ、それをちゃんとレンダリングできる
技と方法を自分なりにつくっていくことだと思うこのごろ。
今のところの狙い目としては、仮に「実践的研究」(菅磨、2007)があったとして、
「こういうのが大事なんだなぁ」ということを説明できる変数を固定して、
刻々と変化する実践、A、A+1, A+2, A+3, A+N、を
(A+N)-A に変換し、その差分を固定して変数で説明することかと思っている。
これは次の研究に向けての現在進行形的検討課題。
(菅磨志保(2007). 媒介される知恵―実践的研究とは?『Communication-Design 2006:異なる分野・文化・フィールド 人と人のつながりをデザインする』(pp. 49-54)大阪:大阪大学コミュニケーションデザイン・センター)
みずもとさんんから紹介してもらった本を読む。
さて、論文の続きを書く。
CIEC第86回研究会(共催:教育システム情報学会関西支部)
■テーマ:情報フルーエンシーで考える情報教育
■日 時:2009年12月19日(土)13:30~17:00
■会 場:西宮市大学交流センター 講義室2
(西宮市北口町1番2号ACTA西宮東館6階 TEL 0798-69-3155)
(http://www.nishi.or.jp/~daigaku/info/shisetu.html)
■開催趣旨
1999年、アメリカ学術会議(National Research Council)によって
「Being Fluent with Information Technology」が出版された。
この本で「FITness」という名前で提案されている項目が、
いわゆる「情報フルーエンシー」の目標である。本研究会では、
情報フルーエンシーの発生の背景、情報リテラシー、パソコン
スキルなどの概念との違い、現在の日本国内における高等学校や
大学での展開などについて、この領域を研究・実践してきた4名の
話者が紹介し、今後の情報教育の目標の一つとしての位置付けに
ついて、活発な議論を行う。
■プログラム
司会 中西 通雄(大阪工業大学 / 研究委員会委員)
○13:30~14:20 中條 道雄 (関西学院大学)
「Being Fluent with ITの背景と、情報フルーエンシーが示唆するもの」
○14:30~15:20 喜多 一 (京都大学)
「京都大学における情報フルーエンシー」
○15:30~16:00 野部 緑 (大阪府立桃谷高等学校)
「高校情報科と情報フルーエンシー」
○16:10~17:00 辰己 丈夫 (東京農工大学)
「国内各大学の標準教科書や IPSJ GE-BOKと情報フルーエンシー」
■参加費:CIEC会員、教育システム情報学会員は無料
非会員の方は500円(どなたでもご参加いただけます))
■資料代:1000円
■ お申し込み・お問い合わせは
CIEC 事務局 e-mail : sanka@ciec.or.jp
TEL/FAX 03-5307-1195/03-5307-1180 URL: http://www.ciec.or.jp/
━━━━━━━━ CIEC第86回研究会参加票 ━━━━━━━━
ふりがな
氏名: 所属:
担当教科/業務:
住所: TEL: FAX:
e-mail:
情報教育との関係:
意見・質問等:
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
************************************************
CIEC(シーク:コンピュータ利用教育協議会)事務局
http://www.ciec.or.jp/
TEL 03-5307-1195 FAX 03-5307-1180
166-8532 東京都杉並区和田3-30-22 大学生協会館
************************************************
研究会情報:「情報環境と人間生活工学」ワークショップ
あ~、金曜日に授業がなければ、絶対に東京にいったなぁ。
■ 研究会情報 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
○「情報環境と人間生活工学」ワークショップ
【情報と生活・生活と情報:私たちの生活を取り囲む“情報環境のデザイン”を
目指して】
【日時】2009年11月27日(金) 13:30~17:00 (13:00より受付開始)
【場所】早稲田大学 西早稲田キャンパス 55号館2階第3会議室(東京都新宿区
大久保3-4-1)
【主催】早稲田大学創造理工学部人間生活工学研究室・(社)人間生活工学研究セ
ンター(HQL)
【開催趣旨】
ICT技術の進展と共に、ユビキタス環境が現実のものとなってきています。生活
者にとって価値ある環境を構築するためには、どのような情報が、どのような形
で提供されることが自然な形態なのでしょうか。このことを生活者の立場で明ら
かとしていくことが重要と考えられます。このワークショップでは、生活者と情
報とのかかわりについて、実際の生活を基点に考察し、人間生活工学の新たな展
開を模索していくことを目標といたします。
【プログラム】
0 はじめに
「情報環境と人間生活工学ワークショップ」にあたって
早稲田大学理工学術院 教授 小松原明哲氏
1 特別講演
「情報環境デザインのための人間生活工学研究:医療の場を題材として」
法政大学社会学部 教授 原田悦子氏
2 講演(1)
「IW2視点で進める、全体最適」
富士通デザイン株式会社 第一デザイン事業部 プロダクトデザイン部 部長
岩崎昭浩氏
3 講演(2)
「家庭向けICTサービス利用促進のためのデザイン~訪問調査から見えてきたユー
ザの実態と心理モデル~」
NTTサイバーソリューション研究所 ヒューマンインタラクションプロジェクト
中谷桃子氏
4 講演(3)
「情報に支援される生活行動の分析:ネットワーク商品のために」
パナソニック株式会社 コーポレートR&D戦略室 ユニバーサルデザイン推進
グループ 阪本清美氏
5 質疑とパネルディスカッション
6 終わりにあたって(社)人間生活工学研究センター(HQL)
【ご案内】
どなたでも参加できますが、事前にお申し込み下さい。会場の都合により先着50
名まで受け付けます。
申し込み先:(社)人間生活工学研究センター東京事務所
kouza@hql.jp 宛。氏名と所属(HQL 会員にはその旨)を明記。
参加費:2000円(HQL会員は1000 円)。当日受付にてお支払い下さい。
会場へは、東京メトロ副都心線「西早稲田」駅下車が極めて便利です。
詳しくは下記サイトをご覧下さい。
http://www.f.waseda.jp/komatsubara.ak/2009WS.pdf
(情報提供者 小松原明哲様)
観察者という視点
実際の教育のプロセスに従事する教師が持つリアリティと、
観察者がデータをもとに描く事実は、必ずしも一致しない。
リアリティとは、バフチンも指摘するように、多声性によって構築されている。
実際の教育的営みに従事する当事者と協働して研究活動を行うと、つまり相手のある研究を行うと、
しばしばその視点の齟齬に出会う。
しかし、その齟齬の存在こそ、実はリアリティの多声性を裏付けているのではないか。
例えば、ある現場で数年間をかけておこなった実践のまとめた論文に対して、現場の教師からは以下のようなコメントをもらった。
「(中略、論文には問題がありません)ただ、論文になると現実とは差があるように感じてしまいました。
私たち現場の教師は、全体的な印象を生徒の表情やテストの結果から、感覚的に
とらえますが、論文や研究となるとどうしても抽出したサンプルを、部分的に
分析して、それを“事実”として表現しないといけないのですね。
書かれていること自体は“事実”なのですが、印象としては、都合のいい“事実”だけを
抜き出していっているようで、何か後ろめたさを感じてしまいます。」
とてもするどい指摘だと思う。
対象とする教育的営みがどこにあるのか、
誰が行っているのか、誰が対象なのか、そうした教育的営為の全体性を
およそ「教育学」という看板のもとに科学をする研究者は、部分科学の一方で
考慮しておく必要があるのではないだろうか。
この辺りの落とし所は、現在進行形の案件として、まだ私自身落とし所が分からないが、
長いプロセスで考えていきたいと思っている。
「反」CALL論
ずばりいたいところを突かれている気がします。
でも、ここで言われていることはとても共感しますし、今、書いている博士論文にとても近い。
2日前に、境先生と同席し、隣の席に座ったのも何の偶然か。。。
http://web.hc.keio.ac.jp/~skazumi/Laterne101_CALL.pdf
恋するマトリョミン
これは笑えた。否、癒された。どこで売っているのだろう。。。
WITHOUT THOUGHT vol.9
Young (1993)
Young, M. F. (1993). Instructional design for situated learning. Technology Research and Development, 41, 43-58.
学習を成立させる要件として、以下の4つが必要だそうです。
1) Generator Set
2) Scaffolding
3) Supports
4) Assessment
これを言いっぱなしにしないで、どうやって検証するかが次に大切だと思う。
だけで、それをちゃんとやっている論文は以外に少ない、というかほとんどない。
ちゃんとした検証をしているものがあるかと思うと、それはとても狭い意味での学習行為だったりする。
複雑な活動を複雑なまま俯瞰するなんてことは、できないのでしょうね。