児島(2008)
児島功和(2008)<再著述>としての成長とそのコミュニケーショナルな条件―ナラティブ・セラピーを手がかりとして― 教育科学研究 23, 11-18.
よぉ、古巣の紀要、質が高いぞ!
こじ、がんばってるなぁ。
英語教育学と、教育学(特に、社会学的なパースペクティブをもって、教育的な営みを省察しようとする領域)との大きな違いは、前者が「教える」という行為の成立要件を自明とするのに対して、後者は「教える」、つまり教育的な行為の成立要件から探りを入れることを伝統とすることだと改めて感じました。
なぜ、教育という営みは成立するのか? 改めて考えてみると、マクロな近代社会の権力機構のメカニズムと、ミクロなインターパーソナルの関係性の相同性と非対称性が横たわっています。
今は、その、マクロとミクロのズレの隙間に、いろんな分散所有されるリアリティ=世界があって、そこが、いかようにしても出会えない、というところに、今日的なおもしろさと課題があるんじゃないかと個人的には思っています。
同じ地平線上にありながらも、憲法や制度の届かないところに、実は、人々の私的な困難性が横たわっていて、そこをすくい上げようといろいろやっても、社会をpersonalに引き上げることに政策が失敗しているから、なんかずれてしまって、国民から「ちがうんですけど~」と簡単につっこまれてしまっているのが政治のような気がします。だから、twitterとか、youtubeが、政治をpersonalな地平で吸収しはじめていて、でも、実際の担い手たちが、その使いかたを「分かっていない」または、完全に「誤解」しているから、選挙活動の変わり、ぐらいにしか使えていないのもイタイですね。
さて、本題。
LET2009の基調講演で西口先生がおっしゃっていたことと、とても近いものを感じました。
本論文では成長を、いったんは「経験の意味づけ方が多様(豊か)になること」と定義し、
これを促すために問題を外在化し、自己を再著述していくこと大切であり、
そのために必要なのが他者との会話であるとしています。
上記を位置づけるために、とても丁寧に先行研究を洗い、
最後に、教育的な営みへの応用を示唆しています。
西口先生は、基調講演のなかで、この部分を
ストーリー・テーリングの活動に置き換えて説明していたと思います。
語る、ということは、私秘的なものではなく、社会的なものであるという
ことを改めて確認しました。こうして書き込むことも、その一部なんでしょうね。
social media とは、上手くいったものです。誰が名づけたのだろう。
moodleの開発者たちも同様のことを指摘していますが、
その指摘が「残る」、または「積み重なる」かは、やっぱり、
「おもしろい」と思える客観的に観察可能な事象の「つかまえ方」と
「見せ方」なんじゃないかと思います。
この辺りを英語教育の作法のなかで、身に付けたような気がします。
なんか、本題から脱線気味ですが。
最後に、質的研究の引用のなかで「厚みのある記述」を、生のデータをいっぱい出すこと、
と誤解している人がいるけど、データを使いながら言葉で現実を記述し、、
構築することなんだと改めて感じました。
今日は、重曹とアロマオイルを使って、カーペットの掃除をしました。
気持ち的に部屋の空気が軽くなったような。
明日から、アメリカから友人のイラク人とクロアチア人の夫婦が
遊びに来ます。日本の底力を体感していただきましょう。